「実在」の話
オタクがよく知る実在には、2つの方向がある。
Abstract
まず実在に2つの異なるまなざしがあることを示し、それぞれについて実例付きの解説を加えたのち、それらがどういった姿勢に立脚しているかを述べる。
実在
オタクが「実在」というとき、2つのまなざしが存在している。
①解像度の高さ
②共同幻想
これらについて話していく。
「解像度」
オタクがよく使う”解像度”という概念は、キャラクターの造形に対して使われる言葉で、その造形が細部まで作りこまれており、それを”鑑賞”する者に精緻で複雑な(しばしば”ありそう”な)イメージを描かせる場合、「キャラクターがはっきり、そしてくっきりとした”輪郭”を持って見えた」というので、写真になぞらえて言われるものである。(この”輪郭”という話は、またのちに登場する。)
では解像度が高いキャラクターが登場すると何が起こるのか。それは「アイドルマスター シャイニーカラーズ」(通称「シャニマス」)のオタクを見ると分かる。
このnoteにもアイドルの実在性というものが書かれているが、この場合、どこまで”現実らしい”かということに焦点が当たる。これは、現実が実在の極致だと考えているからである。
現実にあるものは存在している。したがって現実に限りなく近いものは存在しているとみなして差し支えない。そういった考え方である。
想定される反論
「画面の向こうではないか」「触れられないではないか」
:そんな問いに意味はない。それをこれから話そう。
目で見たものしか信じたくないのはよくわかるが、君は国会議事堂の中を見たことがあるか。私はない。そういう意味では、国会議事堂であれ守礼門であれ東京タワーであれ、等しく「画面の向こう側」である。
君はアフリカに行ったことがあるか。私はない。だから私は、画面の向こうを現実でないと言うのだとすれば、エジプトのピラミッドが現実に存在するのかどうか確証を持って言うことができない。ピラミッドがあると信じる秘密結社がそこら中に構成員を張り巡らせているかもしれないし、あるいは、「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」のように、”ピラミッドは存在する”という認識的な異常を引き起こす薬剤が雨と一緒に世界中に降り注いだのかもしれない。
そんなことは有り得ない、不可能だと言うだろう。
確かにそんなことが現実であるにはあまりに困難だ。しかし、この話を否定する根拠はそれ以外にない。
「あまりに起こりづらい」からこそ現実である可能性が高いとみなされているわけで、それはつまり「起こらない確率が非常に低いと考えられるもの」は現実とみなされる可能性が十分にある。
君は魔法使いを見たことがあるか。私はない。でも居ないとは言えない。存在することが非常に困難なだけだ。
君はシャニマスのアイドルを見たことがあるか。もしかしたらないかもしれない。でも、もし、彼女らが”いかにも存在しそう”で「存在しない確率が高くない」のだとすれば?
これは議論のすり替えではないのである。ニュースだって”画面の向こうに作られたお話”なのだから、本質的にはアイドルの何気ないやり取りのエピソードと変わりがないのである。
画面の向こうだって、ことと次第によってはもう一つの現実なのだ。
「目の前のたった一つの現実」というモデルを捉えなおしてみると、そのような姿が見えてくる。
「一方的ではないか」
:これもあまり当てはまらない。ゲーム内にも選択式の会話を用いてアイドルのプロデューサーとして意思疎通をする方法がある。(「グッドコミュニケーション」というやつだ)
選択式の会話がダメだというのなら……
シャニマスではないが、アイマスの星井美希さんというアイドルが(VTuber的な形で)配信を行ったという例がある。
SHOWROOMというプラットフォーム上で行われ、コメント読みなども行われたこの配信においては、完全な双方向コミュニケーションが成立していたのである。
(※ただし、VTuberの”存在”についてはもう一つの側面がある。これはのちに話す。)
もちろん、声優がモーションキャプチャーを行って演じたという可能性もある。しかし、だからといって、その可能性が、星井美希さんが配信を行っていたというもうひとつの可能性を否定する根拠にはならない。
「共同幻想」
さて、先ほどの項でだいぶ現実に対する見方が変わったであろうから、現実に対するもうひとつの考え方を示そう。
共同幻想という言葉には聞きなじみがないかもしれない。
この言葉を作り出した吉本は天皇制の客体化にこの観念を用いて、いかに戦前の日本という国が存在していたのかを考察していたのである。この考えを借りよう。
例えば、「信用貨幣論」について考えてみよう。
現在、貨幣はそれ自体をほかの何とも交換することはできない。貨幣で物を買うときは、それは当人たちから見れば「交換」であろうが、全体として見ると貨幣は移動しただけでその総量は変化していない。
かつては「兌換紙幣」と呼ばれ、金などが価値基準となって、1オンスの金と35ドルの貨幣を交換するような通貨制度が存在していた。
しかし、これが廃止され、貨幣は貨幣そのものによって価値が成り立つ存在になった。
日本銀行は日本銀行券を発行するが、日本国への信頼が損なわれると日本銀行券の価値は下落する。(もちろん同時にドルの価値がそれ以上に下がったりするとドルに対して円の価値が上昇することもある)
ここで重要なのは「いかにしてその価値が生み出されるか」という話である。
日本銀行券は、人々が日本銀行券に対して抱く信用、つまり「価値があると信じられることによって価値が生まれる」のである。
我々は物語の中で生きている。ある特定の柄の紙切れに価値があるのだ、という風に誰もが信じ込んでいるその状況によって、その紙切れは”価値があるかのような振る舞い”をすることができる。それは、それ自体に価値があるということと見分けがつかない。
日本銀行券だけではない。思い出の品物だって、物語によって価値が生み出されるものだ。あることを信じることによって、実際にそうであるかのようなふるまいをし、実質的にそうなってしまうという例は無数に存在する。
すると、現実に対する見方が少し変わってくるだろう。あなたや私が生きている世界、現実だと思っていたものにも、実は物語という幻想が棲みついている。
物語というのが実は現実の重要な構成要素であるとしたなら?
「解像度」の部分は「現実が物語であるとしたら?」という問いであったが、今度は逆だ。今度はこう問おう。物語こそが現実であるとしたら?
この違いは重要だ。先ほどは「どれほど現実に近くあり得るか」ということ、つまり解像度という名の”現実味”の尺度が高いほど成績が良いという評価軸にしてきた。
しかし今度は違う。どれほど多くの人がそれを信じるか、というのは、先ほどのような現実からのトップダウン的な評価軸ではなく、いかに虚構を現実へと仕立て上げるかという、現実へのボトムアップ的評価軸である。
このふたつは似ているようで異なり、違うようで近い。
こちらの評価軸の代表として、バーチャル美少女「のらきゃっと」さんを挙げよう。
彼女はこう述べている。
私と皆さんが触れ合って
触れ合ってできる形
それが私の輪郭
皆さんと私が触れ合ってできる形が
私の姿を形作っているんです
皆さんと触れ合わなければ私は存在できない
手を伸ばして触れてぶつかったところ
そこが私の輪郭
彼女はこう語る。「のらきゃっと」という架空の存在を信じ、そして、触れていく。その行為こそが、(逆に)のらきゃっとを作っていくのだと。
現実だと思わせられるような工夫や技術が進歩していくことで、彼女はもっと現実に近づいていく。彼女は「リアライズ」、つまり、現実の存在となって存在していくことを夢見ている。
前半の解像度の話と少し似たようなところもあるが、この幻想的な(共同幻想の)存在の仕方というのは、とても興味深いし、私は、これを美しいとさえ思う。
ふと思えば、そこにいる。そういう存在の仕方だからだ。
さて、個人的な感想は置いておいて、まとめに入ろう。
ふたつの存在論
1.「解像度」型
・どれほど現実にある可能性が高いかということを指標にする。
・視点は現実側にあり、現実からのトップダウン的な発想である。
・現実を実在の極致として考える。
・”輪郭”は、描像それ自体の精密さによって定まる。
2.「共同幻想」型
・どれほど多くの人に信じられているかということを指標にする。
・視点は幻想側にあり、現実へ向かうボトムアップ的な発想である。
・現実を幻想の極致として考える。
・”輪郭”は、描像とそれを認識する対象の間で定まる。
どうだろうか。「存在」というものは近年技術の発達によって書き換えられつつ、あるいは危ぶまれつつある概念である。
この私の文章が、存在するということについての問いに対して、何かを与えることができれば喜ばしい。