01.地球中級生活ガイド

 この『地球中級生活ガイド』は、全3冊のうち2冊目です。

 あなたは、すでに日常生活の上で必要な単語、文法、マナーなどをマスターしていることでしょう(もしそうでないのなら、『地球初級生活ガイド』をまず読むことをオススメします──その著者は私ではありませんが)。

 しかし、人間やその集団が織りなす様々な現象の理解は困難です。著者は、自身の経験からその少なくとも一部を記述することを試みています。それがこの文章です。

 

 

0 基本的な考え方

0-1 必要な概念の解説

  ①

    文は、言語を用いて単語・文法などの規則に則って書き表されることが必要であり十分、という解釈をここでは採用します。

文法とは,〈その言語の文(文法的に正しい文)をすべて,かつそれだけをつくり出す(しかも,各文の有する文法的な性質を示す構造を添えてつくり出す)ような仕組み[=規則の体系]〉であるとし (略) 上のようにとらえた文法を〈生成文法〉という。

 

出典:世界大百科事典第2版「生成文法」の項目より抜粋、略は筆者

    しかしながら、現実に発される文はこの定義上成立可能な文よりもかなり少ないのです。なぜでしょうか。

    それは、たいていの場合で、文は手段として用いられるからです。

    なんのための?イデアを伝達するための手段です。

  

  ②イデア

    ここでの「アイデア」は一般的な用法よりも広い使い方をします。ここでの「アイデア」は思いつかれたこと全体を指します。

    混同を避けるため、以下ではアイデア*と書くことにしましょう。

    アイデア*には様々な種類があります。

叙述・判断・疑問・詠歎・命令など話し手の立場からの思想の一つの完結をなすもの。

 

出典:精選版日本国語大辞典「文」の項目より抜粋

    いまは種類はさしたる問題ではありませんが、いずれにせよ、文がアイデアを伝達するための手段であるということは、アイデア*には以下の要素が関わってくるということです。

    

    ・送り手

    ・受け手

    ・伝達されるアイデア*自身

    ・伝達手段としての言語

 

    大抵の場合、言語はアイデア*を余すことなく伝達することはできません。それは次項以下に由来します。

 

  ③意味

    アイデア*を言語を用いて伝達する文には、「意味」という性質があるとされます。”されます”と書いたのは、意味は文の性質ではなくアイデア*に与えられる性質だからで、意味はアイデア*が言語を用いて伝達されうる形式になった段階で失われることがあります

    ある人間(正確には認識主体ですが、ほとんどの場合人間です)が持っているアイデア*をすべて集めたアイデア*全体集合Uを考えると、イデアどうしが連結している構造を持っている部分集合がその中にあります。それがその人間の持つ「意味の体系」です。

    文およびそれによって伝達されたアイデア*がある人間の「意味の体系」の中に組み込まれることができるとき、その人間にとって文は意味のあるものとされます。文によるアイデア*の伝達には送り手と受け手が関与すると先ほど書きましたが、その性質上送り手にとって文は常に意味を持ちます。しかし、受け手に関して常にそうであるとは限りません。

 

  ④認識

    さて、個々の人間はそのほとんどが、そして文を用いてアイデア*の伝達をしようとする人間はそのすべてが認識の主体です。

    認識は、この世界をアイデア*へと変換する行為であるとここでは考えましょう。

    認識主体は少なくとも何十億か存在しています。

 

  ⑤ミーム

    ミームとは、巧妙にパックされたアイデア*で、言語を用いて伝達されやすい性質を持っています。例えば、組み込まれるべき「意味の体系」を外部に依存することで自己のサイズを小さく保ったままでも”解凍”されやすく”圧縮”も伝達されやすい形で行われるアイデア*はよく見ることができます。*1

 

0-2 思考に関する注意点

  思考には言語を用いる思考と言語を用いない思考がありますが、そのうち言語を用いる思考は受け手と送り手がいずれも思考を行っている当人であるようなアイデア*の伝達に等しいので、その場合でもアイデア*の伝達不全が生じます。*2

 

0-3 未知の法則・現象についての考え方

  未知の法則・現象に関しては普段と異なる考え方を取る必要があります。といっても、それほど難しいことではありません。

  それが「存在する」ことを受け入れるのです。意外にこれを行うことが難しいと言われるのは、自身の「意味の体系」にないものを受け入れることが困難だとされているからです。

  新たな「意味の体系」を構築してください。そして、その構造を調べてみてください。*3

  さあ、あなたの前にこれから未知の現象が現れます。恐れないように。(DON'T PANIC! ──これもミームですね*4

  そういう現象があると考えるのがきわめて自然なのです。

  ひとまずは、心の存在を公理として、その性質を議論することを始めましょう。この態度を取ることがこの世界に対するものとしては最も実践的(practical)です。*5

 

1-2 内的-外的反応の相互作用

  「心身相関」という現象があります。(134. 心が体に作用する仕組み 〜心理ストレス反応の神経回路〜 | 日本生理学会)

  心は外部からの刺激によって影響を受け、逆に外部からの刺激にも影響を与えます。「外部からの刺激に影響を与える」というのがどういうことかというと、自分自身の認識に影響を与えるということを指します。自分の心が受け取る外部からの刺激に影響を与えるということです。

  この心の中に起こる内的-外的反応のループはきわめて高速なので、普段は平衡状態を保っています。注意すべきなのは、心が一定の状態を保っているわけではないという点です。極めて短い時間内で考えれば一定と見なすことができますが、人間の持つ時間スケールで観察すれば、内的反応と外的反応の強度に応じてバランスが変化するのです。

 

1-3 模倣

  ミラーニューロンと呼ばれるニューロンがあります。このニューロンが関わっているかどうかは疑問ですが、人間の心には他者が受けた外的反応を推測して模倣・再現する性質があります

  それによって、人間は五感によって推測した他者の受けた外的反応から他者の仮想的な内的反応を生成することができます。これを「他者の内部化」と呼びます。

  この他者の内部化の働きは、人間の心の複雑性に大きく関与しています。先ほど1-2で言及したように、人間の心は平衡状態を保とうとします内部化された他者の反応を織り込んで内部反応が平衡を保とうとするので、複雑な計算が必要になり、結論を出すために時間を要します。さらに、その結論を出そうとしている段階でも新たに処理すべき情報が入るため、より複雑さ/予測不可能性が増大します。

 

1-4 エミュレート

  1-3では他者の推測される外的反応から他者の仮想的な内的反応を生成すると述べましたが、このほかにも、心は、他者の推測される外的反応と他者の行動を入力と出力として、その間を結ぶ、つまり入力から出力を導けるようにフィットされたような内的反応関数を生成することもできます

  これは学習の機能を応用したもので、人間の技術でも「ニューラルネットワーク」として確立されています。*6

 

1-A 呪い、願い等による認識の押し付け

  呪い、願い等による認識の押し付けは1-3,1-4を利用して行われるもので、願った人間の「こうあってほしい」という出力をもとにして、1-4によって願われた人間が願った人間の内的反応を逆算し、1-3によってその他者の内的反応が内部化されます。

  内部化された他者と平衡を行おうと試みる心は、(内部化された他者とあたかも対話しているかのように、)受け取った者の心の平衡状態が願いや呪いへと傾きます。

  これが認識の押し付けの働くプロセスです。

 

*1:読者に余談ですが、この解釈を取ると「認識災害」と「ミーム汚染」の違いを明確に把握することができます

*2:強力な反ミームは当人自身への伝達すら阻害します

*3:とある魔術の禁書目録」の一方通行が魔術に対して「別ベクトルの存在を仮定する」と言ったことになぞらえたいのですが、さすがに本文にはこれは書けませんね

*4:銀河ヒッチハイク・ガイド」。"42"と言われたら"生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え"と返されるのは高度に「銀河ヒッチハイク・ガイド」に背後の意味の体系を依存したミーム。単純なサイズの小ささもさることながら、数字はこのミームに関係なく使われることが多いので、そのぶん認識する機会も増える。)))

 

 

1 心

1-1 心という現象

  多くの人間には、「心」という現象がきわめて高い確率で存在します。存在しないと考えても矛盾しないような理論も構築は可能でしょうが、「心」が存在すると考えた方が簡潔に現実に起こっている現象を説明することができます。

  「心」は、人間が行う内的で抽象的な反応です。((だから「心がどこにあるか?」という問いは「足し算はどこにあるか?」と同じくらい成立しない、つまりまったく成立しない質問なのです

*5:もちろん他の態度を取ることも考えられます。例えば、1+1が2になることを前提とする数学体系があれば、1+1が2になることを成立させるためのさらに根源的な公理を考える数学体系も、さらに「計算」や「論理」そのものを根源的に立ち返って公理を考える数学体系も存在します。研究者たちは自分が研究する対象に応じて自分が基づくべき数学体系を選択します。私が提案しているのは、人間・世界に対してもこのような態度を取ることです。

*6:入力と出力の関数のフィットの修正はこのように行われているようです:

xtech.nikkei.com