小倉しおんがものすごくかわいい

小倉しおんがものすごくかわいいという話を、します。(冷静)

 

 

表象kawaiiと存在kawaiiに分けて説明しよう。

表象kawaiiと存在kawaiiとは、いわば容姿と中身の話と理解してもらって十分であろう。*1

行くぞ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

あっ

⚠以下の文章にはアニメ化・単行本化以降の展開のネタバレを含みます!

注意のこと

小倉しおんという存在

表象kawaii

表象のkawaii

まず順当に考えて長髪黒髪青目メガネっ娘ですよ。おまけに寒色系でネクタイ。(下図)

:thumbsup:

かわいくないわけがなくない?????????????????????????

要素を分解すると、

黒髪、長髪、青目はすべて「寒色」「静」のイメージにある。

黒・青という色が寒色であるというのはご存知のとおり。

長髪の静止するイメージというのは、ボブだとか他の短い髪が活発的なイメージを持つことと対比すると分かりやすい。髪が本人を覆っている、というイメージであり、それが寒色ならば重く見えるのだ。

・メガネは「知」「型にはまった」というイメージにある。

メガネは、レンズを通すことでしか正しい像を見ることができない。

正しい像を結ばない人はメガネを使うと正しい像を見ることができる。しかしそれは逆に、「あるフレームの中でしか物事を正しく認識することができない」という制約であり、メガネとは視界に開いた窓である。

でかいメガネというのはそれをなるべく緩和するものであり、丸いメガネはそのやわらかな印象を持った形を伴って、限られた視野を広げようとしている。角ばったメガネは視野(つまり、そこから見える世界であり、認識を制約する形)そのものが四角四面である印象を受けるし、小さいメガネは頑固であるとか、視野が狭窄した印象を受ける。

要するに、メガネとは正しい認識を行わせている代わりに、かけている人間の視座を規定する道具なのだ。(後者の例では"色眼鏡"が分かりやすいだろう)

黒い服、ネクタイもまた「寒色」「規定」のイメージだ。

どのような服装をしているのか、小倉しおんのほかの服装も紹介しよう。

紫シャツ、紫スカートに黒リボン。真っ黒じゃないけど、かなり暗めのコーデだね。

総合すると、小倉しおんの外見的特徴には"寒色・静・規定"のイメージがある。

いっつも黒いローブ着てるし。

ハロウィンでヴァンパイアコスするときみたいなやつ

───のだが、小倉しおんはよく逆ハ眉をする。

きりっとした表情の小倉しおん。なんか顔がいい。は?美人か?

実は、小倉しおんは、結構顔がきりっとしているのだ。調べていると、「あれ…?こいつ顔がいいな…」と素直に思ってしまったのは、思ったよりも悔しかった。お前らにもこの悔しさを味わってほしい。そしてこのギャップに悶えてほしいし、「静」の「強さ」というアウフヘーベンを起こして狂ってほしい。

さて、いよいよ存在kawaiiの項に移ろう。

存在kawaii

小倉しおんの存在的kawaiiには4つの原因がある。

(1)破綻していること

    (1-1)好奇心旺盛であること

    (1-2)倫理観が逸脱していること

    (1-3)夢中になると何も見えなくなること[暴走すること]

(2)胡乱であること

(3)形象であること

(1)小倉しおんは、破綻している。だからこそ美しい

(1-1)好奇心旺盛であること

天井からぬるっと現れる小倉しおん

好奇心旺盛な子はかわいい。

スイッチ入っちゃうとリハーサルしないので結果的に自分が困っちゃった小倉しおん。
ワクワクがまったく抑えられてなくてすごくかわいい。
(画像としては再掲だが、メッセージは異なる。)

特に、好奇心が抑えきれず(キラキラ目要素)、どう考えても怪しい案件に自分から足を突っ込んでしまうような子は天命を感じてかわいいし、さらにその状況を打破出来てしまうような子は強さを感じてかわいい。

一般に、欲求を抑えきれないということは、理性の何らかの部分が破綻をきたしているということである。存在の中で破綻していながら成立しているものは、美しい。

これは、終末百合と似たような観点であると言えるかもしれない。

わたしには、破綻した終末世界の中で点々とした備蓄に頼って成立している危なっかしい二人の生活と、理性が一定の状況で破綻をきたしたまま成立している小倉しおんと、倒立している東京タワーに、同じ色のラベルが貼られて見える。*2

「好奇心は猫を殺す」というが、いつ死ぬかもしれないような事態にもわくわくが抑えきれずに突っ込んでいく子は生きていることが奇跡のように思えるし、逆に敵を殺して帰ってくる猫はその奇跡が必然になってしまうので、もっと好奇心が増長してしまって、とても危険だなあ、危険だなあ………………………………

美しいなあ……………

そういった眩いばかりのきらめきを、見ていたい。

(1-2)倫理観が逸脱していること

1期でも「倫理のテストだけ取れない」と言っていたし、2期でも「学校の備品だから壊しても大丈夫」と言っていた。

これは1)にも通じる話だが、倫理が破綻している子は、かわいいし、美しい。

常識観が破綻していることにも通じる。常識が破綻していて嬉しいと感じるのは筆者自身が常識なんてクソクラエと思っていることにも起因する。

ちなみに、こういう子を見ているうえで重要なのは、倫理観や常識が破綻していても不快感を受けないということだ。

倫理観が破綻していて不快感を受ける時は、致命的に正しくないことが原因だが、「正しさ」というのはそもそも多数決的に決まるものであって、そこに筋が通っていれば正しさなんてものはどうにでもなるのである。だから時代によって正しさも変わるのだが、ここで言いたいのは、小倉しおんが倫理に反するパワーを使うのは誰かを助けるときであるということだ。

「誰かを助けるため」でないのは、小倉しおんはリストアップしてみるとたびたびの悪行を行っているものの、

・盗聴器を仕掛けたりたまたま週5でばんだ荘付近を周回→桃が闇堕ちから復帰

・ピンクヒスイを強奪し、すりつぶす→ミカンを救うための桃の闇堕ち化安定薬になる

・ごせん像に無断でHDMIポートやmicroUSBポート増設→桃の過去・街の過去の共有

・ジキエルを監禁→良ちゃんを魔法少女勧誘から助けるついで

という風に「巡り巡って」の起点になっているからである。(最後は直接的)

リストアップしてみるとよく分かるが、起点の状態のままだとマジの悪行であるが、最終的にシャミ子が街をよくするのに役立っている。

これは、「まちカドまぞく」という作品そのものの特色でもある。

まぞくの記憶をあやふやにした喫茶あすらがウガルルの召喚に役立ったように、そしてミカンの呪いから生まれたウガルルが、結果的には隠された暗黒役所引き継ぎに大いに役立つことになったように、この作品では「一見よくなさそうに見えるものでも巡り巡っていいことを生む」という救いがある

こういう細かい行き届きがあるからこそ、小倉しおんは「やべえやつ」なだけではないキャラになれたのだ。*3ありがとう、伊藤いづも先生

 

この時点では本当に純粋な悪行。シャミ子も涙目。

(1-3)夢中になると何も見えなくなること[暴走すること]

実例を見ていただく。

感情の蛇口がぶっ壊れちゃった小倉しおん3選

最後なんて「情緒…情緒が……」と言われてしまっている(原作の4コマのタイトルは「急にアクセル踏むタイプの人」)。

こういう時の小倉しおんは、本当に止まらない。

前が見えていない子は、そもそもかわいい

突進したり照れたりして壁に気づかずに頭ぶつけてるのとおんなじ。

(2)胡乱であること

やっぱり………胡乱な子って………いいじゃないですか………

妖しい魅力ってやつッスよね…… 何考えてるかわかんない感じっつーか…

この『理解の及ばなさ』ってのがその子自身をより手の届かない存在に押し上げてるのを感じるんスよね………

 

小倉しおんは「黒魔術研究部」所属だしな。あやしすぎる。

(3)形象であること

これこれこれこれ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

めちゃめちゃなネタバレをすると、小倉しおんはグシオンの1ページなんですよね。

高次元存在であるまぞくグシオンが現実世界に落とした一筋の影。一部分。現実世界においてギリギリ表現できていた形。

 

高次元存在っていうのはそもそもロマンなんですよ。心も高次元ベクトル空間の集合体なのでもちろんそう。それを現実に起こしたのが「言葉」という影であったり、一片の人格たちであったりする。

形而上空間内では、物理的特性を持たない思考、すなわち形而上オブジェクトの存在が無制限に許される。可能空間よりももっと広いその世界の中では。

我々は、「窓」さえあれば、我々はその無限に広い高次元空間にアクセスすることができる。たとえば、思考のとっかかり。ちょっとしたひらめき。それは我々を高次元の旅へと誘う。

確かに我々が知覚(五感としてperceive)できるのは、3次元立体、音の何次元かのスペクトル、空間中の化学物質濃度といったものだが、我々の認識能力はそんなものではない。「意味」を読み取ることができる。

「意味」というのは、高次元形而上空間内に存在する、我々には触れられない実体を持っているものだと考えてもいい。(これをもうちょっと身近にしたのが「可能世界」という観念だ)

我々の「心の目」とは、そういった形而上空間、この世ならざる「もういくつもの世界」を観るための目なのだ。

我々には直接表現することの能わない、しかし、確かに存在する、この世界の外側の方向に指をさそうとすると、失敗する。何かしらを象徴として用いなければならない。

象徴とは、「窓」だ。我々の「もうひとつの目」に、高次元オブジェクトを結像させるための。

そして、象徴とは、「影」だ。我々の物質世界では、3次元的断"面"でしかその姿を表現できない。

 

そして、「小倉しおん」も、「データ系まぞく」「本のまぞく」の1ページであり、グシオンが「窓」を介して物質世界へと落とした「影」である。

こういったものに近い概念として、形象というものがある。

けい‐しょう〔‐シヤウ〕【形象】

表に現れているかたち。姿。形態。

感覚でとらえたものや心に浮かぶ観念などを具象化すること。イメージ。

(goo辞書)

わたしはこういった「形象」が大好きなのだ。

カラビ・ヤウ多様体。わたしがはじめて「形象」に、そうと知って出会ったもの。

形象のことはきっとみんなも好きだと思うし、形而上の無限の空間への果てしないロマンを感じると同時に、「3次元にコンパクトに収まってしまっている」というのがちっちゃくてとってもかわいいのだ。

 

まとめ

小倉しおんの表象kawaiiと、存在kawaiiと、その最たるものである「形象」。

みんなもこの記事を読んで、おのおのの思うかわいさを、小倉しおんの中に発見してくれると嬉しい。

 

 

 

 

 

画像引用元:

まちカドまぞく単行本、まちカドまぞく公式誕生日ツイートの画像、まちカドまぞく2期9話のスクリーンショット、カラビ・ヤウ多様体Wikipediaから

 

*1:厳密には、「表象」という語の指す意味はきちんと機能している。アニメキャラにおいては(現実世界においても少なくはないが、物語においてはかなりの割合で)その容姿などのキャラクターの外面的特徴と内面的特徴が結びついている。

物語である以上キャラクターにおいて内面的特徴は外面的特徴に先立つものであり、したがって外面的特徴のことを「表象」と称しているのである。

*2:むろん、性欲の疼きが我慢できずに教室の後ろや物陰で自慰してしまうような状態も破綻であり、先ほどの例と同様にどうしようもない美しさをもって迎えられるはずなのだが、社会的にはこれらを並列するのは下劣でありよからぬこととされるので脚注に留めておく。

*3:いやまあ「ゆうきごうせい」とかはあるけど。あれって本当に合法なのかなあ