天気の子 感想
流れるようなネタバレ。というか、ネタバレしかない。
概略(構図)
ベースを天の意思としていますね。前作でもそうだったし、やはりこういうセカイ系は規模が大きいに越したことはないので。また神の話かよ、みたいな。そんな言い方もあるかもしれませんが、むしろそういう神秘的なものをあの独特の明るさで神秘的なまま書いてしまうのが新海誠さんの本領なんじゃないでしょうか。
前作と違って、天は同じ形をして恵みと災いをもたらしてきましたね。「君の名は。」では隕石と口嚙み酒(奉納した祠も含む)、1つの線でなく絡まり合った時の流れである「結び」、そして「かたはれ時」という様々な鍵が関わってきましたが、今回はそれをすべて「天気」の中で見せられました。空の様々な表情が、作品を彩っているんですね。ひとくちに天気と言っても、快晴なのか、曇りなのか、雪なのか。雨だと言っても、小雨か、霧雨か、土砂降りか、はたまた天気雨なのか。雲の色は白っぽいのか黒っぽいのか。雲の形は?「雪は天からの手紙である」なんて言葉もありますね。
空模様はよく心情描写に用いられます。私が暗い気持ちでも空が曇ったり雨が降ったりはしませんが、創作された作品の中では別です。なぜなら、それを用いて感情を表すことができるからです。経験のある範囲で言うとすれば、あなたが晴れやかな気持ちなら雨が降っていたって街は明るく見え(「あめあめふれふれ」で始まる童謡なんて「らんらんらん」ですからね)、落ち込んだ気持ちなら満点の青空だって疎ましく見えるのです(きっと「ギラギラとした陽射しが赤外線で肌を熱してじっくり焦がしてゆく、お天道様はソースでも塗って俺達を食ってしまうつもりだろうか」、と思うでしょう)。それを強調し、分かりやすくしたものがいわゆる「情景描写」です。我々が見たものは、必ず認識というフィルターを通っています。映画はそれをスクリーンに映し出すのです。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、この作品の思想バトルポイントは、「子供の世界vs大人の世界」です。
えー、ここからはガチのネタバレなんですけど、「子供の世界」組は、もちろん家出少年の帆高君と100%の晴れ女の陽菜さんとその弟、あとは圭介さんの娘さん。「大人の世界」組は当然警察と店員さんたちその他モブの大人、あとは圭介さんです。事務所に居たお姉さん、夏美さんは中間の立場ですね。前半は大人の世界の住人、後半は子供の世界側の味方となります。もちろん最終的には圭介さんも、子供の世界が思想バトルで勝ち、子供の世界側に付きますが。(区切りは後述します。)
帆高君は、「大人になりたくない」行動をずっとしてますね。警察から逃げて、実家に帰って「そろそろ大人になれ」と渡されたお金もそのために使わず(ここが最も分かりやすい)、また警察から逃げて、自転車は盗もうとするし線路の中は走るし、警察や大人の世界の住人には邪魔をするなと言って銃を向け(この大人の世界の住人から最後だけ圭介さんが抜けるわけです)、最後になっても結局実家に帰らないでいる。
陽菜さんもあれだけしっかりしているように見えても、結局は「早く大人になりたい」と言っていることからも分かるように、子供なわけです。
なんだあ子供は雨で東京ごと水浸しにしやがってろくなもんじゃないな、と思うかもしれませんが、とはいえ大人の世界だって冷たいですからね。
圭介さんは後半冒頭で「ひとりの人柱でこの狂った世界が収まるのならそれでいい」という発言をしています。最大多数の最大幸福で言えばまったく正しい。大人の世界の意見はそうなる。「俺達のために君ひとりが死んでくれ!」という意見を平然と口にしてしまう。「誰が晴れにしているのか何にも知らないで」、と叫ぶ帆高君の横で「鑑定付けます?」とこそっと言う(もちろん精神鑑定のこと)、そういう世界なのです。自分たちだって晴れさせてもらってお世話になったのにね。
これは卑怯なもの言いでしょうか。確かに子供の世界側に立った一方的で露悪的な言い方かもしれません。もちろん綺麗事ですべてがうまくいくわけではありません。じっさい、大雨に次ぐ東京沈没で東京及び日本経済が被った損害は甚大なものになるでしょう。浸水の裏では、まったく罪のないたくさんの店が浸水し、家が腐り、人が溺れ、数多くの生活が奪われたに違いありません。それでもある少年の、ひとりの少女にもう一度逢いたい、という無邪気な我が儘は許されるのでしょうか。
これはそういう物語です。
子供は我が儘だ。大人は合理的だ。
子供は純粋だ。大人は冷酷だ。
結局作品の中では子供の世界が勝利しました。どこまでも無垢でまっすぐな、あるたったひとりの少女に逢いたい、かつて神に愛された、たったそれだけの、もう何者でもない、何者でなくてもいい、その少女自身に逢いたいという願いの勝利です。
最後のシーンでは、大人の世界は天と人間の関係を見つめ直し、子供の世界は法律での裁きを受けることで(法律は大人の世界のルールなので)収拾を付けています。
人間は自分にいいように環境を作り変えてきた。世界はもともと狂っている。
これは、おそらく天気の巫女の話を聞いたときからベースの「天」に立ち返るという伏線があったのではないかなと思います。雨続きは異常気象ではない。たかが数十年前からの観測でものを言うな、というセリフは、最後の大雨にも繋がります。3年半降って東京を沈めた大雨は、実は巫女の力ではなかったのかもしれませんね。あの落ちていくシーンの間で天に通じる力があったかどうかは不明です。最後は願っても晴れていませんからね。
区切れ
自分で書こうかと思いましたが、そもそもこの物語がセカイ系(世界を捨てて少女を取る)なので三幕構成に収まりませんでした。というわけでリンクを貼っておきます。シライシアニさんにはここで感謝を述べます。
先ほど「後半」と言ったのは2幕5場の状況の再整理の部分です。物語の真ん中にあるミッドポイント2幕4場のすぐ後ということです。
結局主人公は一切の成長をしません。子供のままです。
それでも良い、という描かれ方がこういった物語の特徴とも言えます。
歌詞の2タイプ(?)
歌詞には2タイプある(ような気がする)
詩なのか散文なのか。
でも完全にどちらかという訳ではないし、歌詞の部分によっても違う。
スピカテリブルも「風がさらう落ち葉を 見上げる夜の光」の部分は詩だし「友達ならいいけど 恋人ならイヤなの」は散文な気がする。
平沢進の曲を最近聞いているのだが、μ'sの曲に比べて何となく体言止めが少ないような気がしたのが事の起こりである。
例えば「金星」などは(JASRAC管理楽曲でないためここには歌詞をあんまり載せられないが)ほぼ散文である。
逆にそれ僕の「本気でも不器用 ぶつかり合う心」とか「だってその苦しさも未来」とかは詩的。
そして、詩的ということでもう1つの観点を持ち出す。
ダブルミーニング?
それ僕を続けて引っ張ると、「それでも見たいよ 大きな夢は ここにあるよ 始まったばかり」
何を見たいのだろうか。
「大きな夢」のような気がする。しかし、それはそのあとの文に接続しているとも思える。
見つけたら後で加筆します。例が見つかるまで上げれないのがめんどいので先に上げる。
「無敵級*ビリーバー」に見る"中須かすみ"と"かすみん"
intro
「無敵級*ビリーバー」の視聴動画見ました?
見てなかったら回れ右前進して見に行ってください。いや別に、ここに貼り付けとくんで戻らなくていいんですけどね。なんてお手軽なんだ........
【試聴動画】無敵級*ビリーバー / 中須かすみ(CV.相良茉優)
これで見ましたね?
見ましたね?
よろしい。
まあ中須後輩!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!とか限界オタクと化して言いながら、その実、容量のでかさと初回ダウンロードの長さに怯んで半月前までスクスタをインストールしていませんでした。反省してます。TLでは追ってました。
漫画も追ってました。だいたい保存してあります。中須かすみが1コマでも端っこでも出ていれば、もうそれは中須回と言っても過言ではないので(過言)
お前の話はいいからさっさとかすみんの話をしろよって?ごもっとも。
――リリースされたら更新しようと思います。ひとまずは試聴動画内の話を。
7/31 更新。
無敵級になってきました。
ぜひ買ってほしい。中須後輩がかわいいので。
鏡よ鏡、あなたはなあに?
「Woh, Woh, A Mirror on the Wall」
ウッ絵がいい..................................................
失礼しました。
で、なんで鏡(Mirror)なんて出るんだ?
鏡というものはこの歌詞の中核をなす重要なメタファーです。
鏡ってなんなのだ?そこから見ていきましょう。この歌の中の「鏡」は4つのものを指しています。
1.光学的鏡
はい。これはシンプルに鏡。自明すぎる。
姿見とか、メイクの時見たりするものとか、まあそんな感じの光学的で物理的な鏡。
入ってきた光を跳ね返す存在です。
こういうところにあるやつ。
まあなんのことはない鏡ですよね。「ステージに上がる前に見る」というくらいのことは言えそうですが、大したものではないです。なんでこんな自明なことを言うのかといえば、もちろん今から非自明な鏡の話をするからです。
2.「世界の境界」としての鏡
物語の中で有名、よく使われるイメージというか比喩みたいなものです。
『鏡の国のアリス』が最大手ですね。アリスは、いつの間にか「鏡の向こう側の世界」へ迷い込んでしまう。これは、「鏡の中にもう一つの世界があってもう一人の自分が同じ格好をしている」ように見えるからです。そう解釈しても筋は通る。実際、鏡に映った像が自分だと認識できる動物の方が珍しいですし。
鏡に映像が「映る」という現象は、古来極めて神秘的なものとして捉えられた。そのため、単なる化粧用具としてよりも先に、祭祀の道具としての性格を帯びていた。鏡の面が、単に光線を反射する平面ではなく、世界の「こちら側」と「あちら側」を分けるレンズ のようなものと捉えられ、鏡の向こうにもう一つの世界がある、という観念は通文化的に存在し、世界各地で見られる。
――Wikipedia『鏡』より
ほかにも鏡の中に入り込む作品はありますよね。映画ドラえもんの『のび太と鉄人兵団』もそうです。”鏡の中の別世界”という概念は割と広く使われています。
3.「真実を映す存在」としての鏡
これの最大手は『浄玻璃の鏡』ですかね。
いやだってあれ全然鏡じゃないでしょ。光を跳ね返すだけの存在だとしたら「人間の生前の業を暴く」は荷が重すぎます。
「鏡の中の自分の顔が~」とかいう描写が小説にあったりするのは、そういうことです。鏡は否応なしに”ありのまま”を映し出す。だからその中に「本当の自分」が映っている......という寸法です。
どうにも次のネタバレを避けたいので曖昧な言い方になっていますが、次の例を見ると、ここの話も理解しやすいと思います。
4.『白雪姫』の鏡
まあこれです。長い道のりでしたね。
ネタバレを避けたいとか言ってる割には大見出しででっかくもじって書いてましたけど、「鏡よ鏡、」は「Mirror, Mirror on the wall,」の訳です。原文の方は知られてなさそうでしたし、私も調べるまで知りませんでした。
つまり、「あなたが一番だ」と言ってくれる存在としての鏡。
「鏡よ鏡、」に続くのは、「世界で一番美しいのはだあれ?」――さしずめかすみんならば、「世界でいちばんカワイイのはだあれ?」でしょう......ここから本編を見ながら考えていきましょう。そして、この歌の歌詞にはこの4つの鏡が出てくることになります。
突如現れた将棋番組のアナウンサー「なるほど、だからこそのこの手だったんですね。」
解説員私「そういうことなんですねぇ。」
戻りましょうかね。というか、91秒ある動画の8秒時点で止まってますからね、今。
でもまだちょっと脱線 言わせておくれよ
ちょっと大人っぽいかすみんの作画すきとか言いたいしかすみんぬいぐうかわとか言いたいのだがこれをぐっと堪えて、曲の話をしよう。
ぐっと........
ウォアアアアアアアアアアアアアア~~~~~!!!!!!!中須~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!
はい。ごめんなさい。失礼しました。中須と出てしまいました。
まあさすがにこのへんにしといて、いいとこに移ろう。
映像と歌詞の繋がり
ほんとうに気を取り直して、動画の最初の方のやつ。
この虹ヶ咲学園駅のシーンにも多分「どこかに向かうはずの場所」である駅で止まっていることに何らかの意味があると思う。(迷いとかか?)「HAPPY PARTY TRAIN」でも「出発点」という意味での駅があったし。
ただ、このへんの前後の小ネタ回収(たぬかすとかにょぽみ漫画のキャラとか)には、「同じ物語ですよ」という意味での文脈づくりというか、そういった小ネタ回収以上の意味はないと思う。いい言い方をすれば、「これはスクスタである」という宣言であるともとれる。
そして、サビ前の前。
真っ白いスクリーンの前で逡巡する中須かすみ。
「努力しても追いつけないのかな」
これはみんなのアイドル「かすみん」としてではなく、等身大の「中須かすみ」と見る方が合っている。なぜか。
「一番カワイイでしょ?だって最強!
努力してるんだもんね」 (『ダイアモンド』)
『ダイアモンド』では、アイドルとしての「かすみん」が描かれている。(「最上級レベルの笑顔で今日もレッツゴー!」から始まって、サビ前に「とにかく応援よろしくね」なのだから、疑いの余地がないだろう)
その曲の中で、
「磨くよダイアモンド」
とある。
ここまで露骨に書くと気づいた方も居そうだが、額面通りに受け取るなら「ダイアモンドを磨く」ということは並大抵のことではない。というのは、硬度10であるダイアモンドを磨くためにはダイアモンドが必要だからだ。(モース硬度の定義から、ダイアモンドには最も傷がつきにくいため、ほかの何かをもって削ろうとすると逆にそちら側が削れてしまう。)
となれば、ダイアモンドは何かの比喩として捉えるしかない。それは、「イチバン」、「一位である」という象徴だ。しかし磨かなければならないということは、「潜在的一位性」を表しているのだろう。「ダイアモンドの原石」という言い方になるのかもしれない。「自分はイチバンであって、もしそうでなければそれはまだ隠れているのだ」ということ。
今気づいたが、スクスタの方が顕著に出ていて分かりやすかった。
これを踏まえて進もう。
「ううん 弱気でヘコんでちゃダメ」
この歌詞を歌っているのは、スクリーンの中のアイドルの「かすみん」である。(これは口の動きから分かる。)ということは、やはりさっきのは「中須かすみ」のセリフである可能性が高い。
中須かすみの心の中で、「中須かすみ」と「かすみん」の、すなわち現実と理想の葛藤が起こっていることは明白であろう。自分が一番のはずなのに、その「はず」は努力してもまだ「はず」のままで。それはとてもつらいことだ。
「わたしにだってできるはずなのにな」
「かすみん」の映った箱の中に居る「中須かすみ」は、呟く。
「内側」に居る「中須かすみ」。
いわば鏡のように「もうひとりの自分」が映ったモニターには、「中須かすみ」は映らない。でも、そこに立っている。
そして、そのどちらも彼女なのだ。
今弱音を吐いている「中須かすみ」と、常に一番であるという強い信条を持つ「かすみん」。
そのふたりが、ひとりの少女の中に同居している。
「超絶だれよりイチバンだもん」
「超絶だれよりイチバン」の「超絶」は文修飾的に、「だれよりイチバン」という主張の強さを表しているのだろう。
理由を示す表現であるはずの「だもん」が依っているのは、「だれよりイチバン」なのだ。さっきの『ダイアモンド』とも合わせて考えると、「かすみん」という存在自体が「イチバン」によって支えられているのだ。(余談だが、「かすかす」と言われて怒るのもそういう理由である可能性がある。)
ところで、しかし、かすみんが言うのは、なんの、どのような「イチバン」なのか?
「にこにー」のように、「自身の持つアイドル像に則って、それを最も正しく実行する存在」か?
「Margaret」にその答えがある。
「今の私は魅力的に見えますか」
「こんな素顔だけれど
もっと好きになってくれるかな」
「いつも好きでいてくれる君にとって
一番でいたい」(『Margaret』)
全部外からの評価である。「一番好きでいてほしい」という、それは多数への数としての人気なのか、それとも好きの総量の大きさなのかは分からないが、『無敵級*ビリーバー』の歌詞通り、そこには必ず「他より」、「誰より」という視点が入る。
だからライバルが居るし、ライバルが要る。
「宿敵!ライバル!完璧な対策!」(『ダイアモンド』)
もちろん矢澤にこにもライバルの視点がないという訳ではない。
「味方みたい?それとも敵?」
「それとも策略とか?あやしい!」(『ずるいよMagnetic today』)
しかし、それが根幹をなす存在ではないのだ。これは「にこぷり♡女子道」あたりを聞けばわかることなのであえて書かない。(なので、「ずるいよMagnetic today」が矢澤にこのアイドル観を歌っている曲なのかと言えば、それには疑問が残るが...)
かすみんを映していた箱。ところが、この箱は消えていく。
「この世界中で たったひとりだけのわたしを」
中須かすみは、内側の存在ではなくなった。
そして、
鏡が目の前に現れる。
しかし、「かすみん」が消えたわけではないことに注意しなければならない。
鏡に映る中須かすみ。
鏡は、真実を映す。鏡の奥に映る方が今は「真実」だ。
さっきの、内側が「中須かすみ」で外側が「かすみん」であった関係は崩れた。
では、鏡に映るのは誰?
この手を、中須かすみの手を引っ張ったのは誰?
「かすみん」に違いない。
この鏡は、複数の意味を持つ。
「この世界中で たったひとりだけのわたしを
もっと好きになってあげたい」
そして、この鏡は(鏡の向こうから伸びた手は)、彼女を、
別世界へと誘う。(2.)
そして、『ホンモノ』はなり替わる。(3.)
「中須かすみ」が、「かすみん」になったのだ。
そして、彼女は鏡の向こうの存在に、つまり自分自身に「笑顔の魔法」をかける。(1.)
「とびっきりキュートに笑ってみようよ
自信が湧いてくるでしょ」
鏡の向こうに映るのは、自分自身の姿であり、真実の姿であり、「イチバン」であった。
その3つが一致する。
「Woh Woh A Mirror on the Wall
Woh Woh ほら笑って
Woh Woh A Mirror on the Wall
Believe in myself 」
「鏡よ鏡、」と言って問いかけるのは、自分自身だ。
「いちばんカワイイ」自分自身。(4.)
それを無敵に、不敵に、誰より強く信じる。ときおり無謀なまでに。
「I'm sweetie cutie braver」
恐れず勇敢(brave)に、自分をどこまでも信じる(believe)。
その少女こそが、『無敵級*ビリーバー』なのだ。
中須かすみと、かすみんと、そしてその間を描いた曲だと言える。
妄想で申し訳ないが、ライブ前に鏡に向かって自分を鼓舞するかすみんの姿が見えたような気がした。
「Let's go! 無敵級*ビリーバー」
(追記)
文字で半分隠れていたが、鏡に手を置いたあとよく見ると衣装変わってたし、普通にかすみんの方だった。補強ができてよかった。
2番
2番。更新前の終わりに
この曲は絶対2番にさらにデカい『感情』があるはずだ。(1番が「braver」で終わったのだから、たぶん「believer」で〆ると思う)
って書いてましたが、ほんとにbelieverでしたね。1番でだいたいの流れがあるので、二番の説明は補強が主になります。
さて、書いていきますが、そういえばパソコンにブルーレイのプレイヤーがなかったことに気づいたので、スクショは貼れませんでした(残念)。
やはり「ワンダーランド」から受け継ぐ歌詞もあり、スタンスを表している。
全然心配はノンノン むしろ想定内
この歌でゼンブ吹き飛ばそう☆
(『ワンダーランド』)
もう絶対めげない 負けないって決めたの
不安も吹き飛ばしてこう
で、2サビ前。
「手強いライバル現る 焦る」
『がんばる姿 見ててほしいな』
「計画通りにはいかないな」
『ねぇ ますます目が離せなくない?』
ここですが、視点の転換。上から0度、180度、360度、540度。
0度:青色。
180度:黄色。
360度:青色。悔しそうな顔。
540度:かすみんフルカラー。
青と黄色が対比されている。おおよそ補色だとみていい。
さて、
この2サビは、1サビとは姿勢が少し異なる。
「平面」であるモニターのある側と逆の側という関係にはなっているが、鏡ではない。それと同時に、1サビのように”中須かすみ”と”かすみん”が打ち消しあう関係にもない。そして「物は言いよう」と言わんばかりに、二人の視点が統合されていく。これはアウフヘーベンだ。
【アウフヘーベン】
矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。
つまり、二人が発展的に統一されたということ。
だから、”中須かすみ”側の、努力を続けようとする気持ちも残っている。
長い夜明けて 朝目が覚めたら
新しい私に出会えるはず
今日より明日の自分のこともっと
大好きになっていたいんだ
もともと一位であるなら、新しい私になる必要はない。
たったひとりだけの自分をもっと好きになるために、新たな自分に出会い、努力を続ける。
彼女は世界を再構築したのだ。
だから「長い夜明けて」の部分のお菓子と王冠の上に立って旗を立てる。
彼女は征服した。
「カワイイ王国」を作り上げたのである。
おわりに
1サビ、2サビ、3サビのハートの出方が気になる。分かれば追記したい。
全体的に、やはりきちんと、成長と、強固な礎ができて描かれてきたなという印象があった。ああ、中須、ちゃんと無敵級になってるぞ………………………………